誰そ彼



 通い慣れた場所。廊下を抜け、階段を上り、また少し廊下を進んだ奥にある、扉。それが見えた所で浮かぶ緩い笑みは無意識の物。後数歩というところで開く扉に気付いて立ち止まると、中から出てきた作業服姿の男達が室内へ向かって頭を下げた。
 どうもありがとうございました、と室内へ挨拶が向けられ、次いで足を止めた侭の彼にも軽く頭を下げて男達は階下へと降りていく。少し遅れて頭を下げ通り過ぎた背を一度振り返った後、改めて扉へ向かう。
 先刻の様子からして恐らく部屋の主は居るのだろうが、いつもの癖、小さく2度ノックをすると、矢張り室内から静かに応えが返される。
「要です、お邪魔していいですか」
「構いませんよ、どうぞ」
 再度浮かぶ笑みと共に扉を静かに開き、要は室内へと足を踏み入れた。



 夕闇迫る刻限の所為か否か、幾分か暗い室内。机に向かい書き物をしている傍へ近付き足を止める。
「お仕事中…ですね」
「もう少しで終りますから、待っていてください」
 書面へ視線を落とした侭向けられる言葉に、はい、と頷く。
 すぐ傍に椅子を見つけて、腰を下ろす。窓の方を見ていた貌が、ふと何か思い出した風に小首を傾げて、未だ書き物をする彼―――幹彦を見遣る。
「そういえば先刻は、何か届け物でもあったんですか」
「―――ええ、頼んでいた椅子が届いたんですよ」
 椅子、と声には出さず唇で唱え、辺りを見回す。少し離れたところに見慣れぬ物を見つけて立ち上がった。
「見てもいいですか」
 どうぞ、と返される言葉とほぼ同時に、要の手が背凭れの縁にかけられる。初めて此処に案内された時に勧められた、今では要の定位置とも言える天鵞絨張りの椅子、その意匠によく似た意匠の長椅子。縁から背へと手を滑らせると、矢張り上等の天鵞絨だということが判る。
「…もしかして、僕の椅子と揃いですか」
「ええ。折角ですからそうして貰いました」
 台詞の前微かに耳へ届いた笑みは、言葉の何処へ向けられた物だろう。声が近いと思った直後、伸ばされた腕に腰を捉えられて緩く抱きこまれる。背後を振り返ると、首を傾げる風にして緩く向けられる笑み。
「僕が譲ってしまうからですか」
 貌を見上げた侭発した台詞に、幹彦の笑みが楽しそうに深まる。
「ご名答。彼らが辞しても結局座らせてしまうでしょう。…あの椅子は君の為のものですから」
 省略される言葉と思いは、双方手に取るように判るが故。褒美とでも云うように向けられる口付け。その感触に目を細めて笑むと、幾分か甘える風に体重を預け、改めて貌を見上げた。
「先生、昨日の続きを、教えてくださいますか」
「勿論ですよ」
 勉強熱心な教え子へ、当然だと云う風に頷きを返されて笑みが零れる。腰に廻されていた腕でやんわりと長椅子へ促し、腰を下ろす姿を確認するといつものように珈琲を淹れに行く。
 ややして、夕闇の迫る部屋に、ゆっくりと珈琲の香りが満ちていった。

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