蜜の微笑み




 舌先を伸ばして幹彦の唇に触れ、唇の縁をそっと辿る。応じるように幹彦の舌先が伸びてきて、舌と舌が触れ合い、生温く甘い感触が生まれた。喉を小さく鳴らして幹彦の舌先を軽く食むと、小さく笑う気配がした。
 頬に添えられた手の平が要の肌を緩く撫で、更に顔を傾けた幹彦の舌が、要の唇を擦ってその咥内奥深くへと潜り込んでいく。舌を裏側から掬い上げ絡め取られ、甘く噛まれて、要の肩がひくりと揺れる。
 もう片方の手が、要の懐へ忍び込んだ。布地を掻い潜った指先は、熱を持ち始めた肌へあっという間に辿り着く。
「ん、…ぅ」
 脇腹を撫で上げられて、背筋に痺れが走る。要は僅かに潤み始めた目を薄く開いて幹彦を見詰めた。その視線に気付いたのか伏せられていた幹彦の瞼が開き、視線が至近距離で絡み合う。ぞくり、と身体の芯が震えた。
 背筋を伝いおりていく甘い疼きに、要は確かに酔っていた。何度唇を重ねても飽き足らず、その先に待つともう判っている目も眩むような熱を、欲しいと思う。それは、以前の要なら受け入れることなど考えもしなかった行為だった。
 もっと、と口付けをねだろうとしたところで、入り口の方から微かな物音が聞こえたことに気付く。在室伺いもせずに部屋を覗く不届き者か、と僅かに眉を顰める。が、戸口から向けられる視線に知った匂いを感じた要は、見せ付けるように口付けを繰り返しながら、戸口の気配を探った。
 舌と舌が絡み合う、濡れた音が室内に響く。脇腹を撫でていた手の平に胸許を撫でられて、要は一瞬息を詰めた。
「っ、ぁ……せん、せ」
 胸許を撫でた手の平に乳首を掠められて、声が震える。
『どうか、しましたか』
 口付けの合間にそう吐息混じりに訊ねられ、要は微かに笑う。幹彦は、要の様子が少しおかしいことには気付いたらしいが、戸口から向けられている視線には気付いていないようだった。目の前に居る自分に夢中になってくれている所為なら嬉しいかもしれない。そんなことを考えながら要ははぐらかすように微笑んで、もう一度唇を重ねた。
 幹彦の薄い唇を割り、緩く開かれたままの歯列を舌先でなぞる。ちゅ、と軽く吸いあげ、それから唇を重ね直して、深く口付ける。積極的な所作の所為か、幹彦の喉がこくりと鳴った。それだけのことで、要はとても嬉しくなる。そして、戸口からの視線が食い入るようなそれへと変わってから、顔を上げた。
 浅く息をつく要を幹彦が不思議そうに見上げる。その頬へ唇を寄せて子供のようなキッスを贈り、―――――その体勢のまま、視線だけを戸口へ向けた。
「金子さん………いえ、水川先生、かな。そんなところで見てらっしゃらないで、中へどうぞ?」
 要の台詞に、幹彦が戸口を見遣る。その向こうで幾分か逡巡するような気配が漂い、暫くして、ゆっくりと扉が開いていった。要の胸許へ潜り込んでいた幹彦の手がするりと離れていき、その腰を緩く抱く。
「要君には敵わないなぁ。…しかし、よく判ったねぇ」
「―――おや、本当だ」
「あんなにじっと見てらっしゃったら、いくら僕でも判りますよ」
 開いた戸口から姿を現したのは、要が看破したとおり抱月だった。
「原稿がひと段落ついたものだから、遊びに来てみたんだけど―――ほら、取り込み中だったから、入れなくて」
「だからってずっと見てるのは、なんだか趣味が悪いですよ。…ねぇ、先生?」
「そうですね」
 辺りを暫し見廻した抱月が、要を挟んで幹彦とはほぼ反対側に置いてある洋机に腰を下ろした。それを見届けた要は、改めて幹彦の方へと向き直る。膝を軽く組みその上に頬杖をつく抱月の姿を視界の隅に捉えながら、わざと見せるようにして幹彦へ口付けた。
 盗み見を見付けられてしまったせいか、行為を中断させてしまったからか、抱月は何も言わずに口付けを交わすふたりを見詰めている。要は視線を幹彦へと戻し、その肩へ腕を伸ばした。緩く抱きつかれた幹彦は嬉しそうに目を細め、腰の辺りで組んでいた手を解いて、要の背を撫でた。
 要は濡れた音を立てて唇を離し、肩を抱いていた手で幹彦の頭を緩く抱え込んだ。先生、と先をねだるような声が小さく響く。その誘いに幹彦は楽しそうに笑って、襟元から覗く肌へと口付けた。
 胸許に触れる舌先の滑る感触に肩を震わせた要が、ゆるりと肩越しに抱月の方を振り返る。
「水川…先生、…」
 誘う声。片手は幹彦の頭を緩く抱いたまま、もう片方の手をするりと差し伸べて、要が抱月を誘う。
「―――――本当に、…君には敵わない」
 苦笑めいた表情を浮かべ、けれど拒むつもりはないといった所作で、抱月が立ち上がった。少し寂しそうで、どこか切なげな視線が、要へ向けられる。幹彦に出会わなければ、あの一件が無ければきっと、今とは全く違う世界に居ただろう要を、どこか悼むような抱月の視線。それに気付いた要は、緩くかぶりを振って笑った。
「水川先生、…そんなお顔をすることはないですよ。―――――全部僕が、自ら選んだことですから」
 幹彦の居ない世界こそ、今の要にとっては考えられない世界だった。幹彦と共に生きることを選びたいと思った。そのために負わなければならないものならば、総て負う。その覚悟は出来ている。
「そう、…だね」
 頷きと共に向けられた視線には、羨望の色が滲んでいた。それに気付かぬ振りで、要は緩く微笑む。何を話しているのかと視線を送ってくる幹彦に、抱月は緩くかぶりを振って返した。
 要の伸ばした指先が、抱月の頬へ触れる。顔を引き寄せる仕草に抱月は口許を緩めて、そっと唇を重ねた。
 要と抱月が啄ばむような口付けを繰り返す。その最中、ひくりと要の肩が震え、塞がれた唇の奥でくぐもった声を洩らした。幹彦が顔を埋める胸許から、微かに水音が聞こえてくる。
「せん…せ、い…」
 幹彦の頭を抱える要の腕が、もどかしげに項から肩口を彷徨う。反らされた要の胸許で緩くしこり始めた乳首を、幹彦の唇が捉えていた。尖らせた舌先と唇で挟み込まれ、捏ねるように吸い上げられる。
 じわりと染み出し始めた愉悦に要の肩が震える。抱月は腕を伸ばして肩を受け止め、長い髪へ指を差し入れて頭を支えて、深く口付けた。吐息が篭る咥内を伸ばした舌先で遠慮無く探り、要の舌を絡めとっていく。
 胸許への愛撫に背筋を震わせ、密な口付けに喉を鳴らす。要の洩らす声が震え、艶を帯びれば帯びるほど、愛撫の密度が増していく。
「っく、ァ―――っ」
 不意にびくりと要の身体が跳ねた。身体を突き抜けていく鋭い快楽に、要の肌という肌が粟立つ。歯を立てられ、きつく吸い上げられた所為、だろう。咄嗟に顔を上げた抱月と息を呑む要の間に、幹彦が割り込む。
「…先生…?」
 戸惑う要の頬へ手の平を当てた幹彦が、顔を傾けて唇を奪う。先刻、抱月が教授室へ入ってくる直前に交わしていた口付けとは全く異なる所作で、舌の付け根の奥、上顎の裏、歯列の奥までを探られて、要は息を詰めた。時折離れる唇に息継ぎはかろうじて出来るものの、咥内の総てを奪うような口付けに意識を攫われかける。その様子を呆気に取られて見ていた抱月は、はたと我に返ると、随分楽しそうな様子で目を細めた。
 しばらくして漸く離れた幹彦を、快楽で少し焦点のぶれた目で要が見上げる。
「…もしかして、先生、―――拗ねてらっしゃった…?」
 半ば無意識に要の口から言葉が滑り落ちる。濡れた要の口許を拭っていた幹彦はつと動きを止めて、焦点の未だ合わぬ要を見詰めた。
「そう……なんでしょうか」
 こくりと喉を鳴らし、大きく息をついて、要が身体を起こす。首を傾げる幹彦の頬へ手を伸ばして、漸く合ってきた焦点を幹彦へと据えた。
「僕が水川先生と…キッスしていて、―――面白くなかった?」
「はい」
 ほぼ即答で返した幹彦に、要と抱月はほぼ同時に噴出した。
「何か…おかしいですか?」
「ああ―――いえ、そうではないんですけれど」
「いやぁ。『出る幕が無い』ってのはこういうことだねぇ」
 いっそ清々しいくらいの笑みを浮かべた抱月が、腕を組んで頷く。それを見て、要が困ったように笑った。
「何か、…おかしいでしょうか」
「いえ、そんなことないです。…僕は、先生がそう思ってくださったことが、とても嬉しい」
「嬉しい…ですか」
「ええ、本当に」
 未だ釈然としない様子の幹彦に小さく要は笑い、もう一度自分から口付けた。
 幹彦は薄い笑みを口許へと漸く浮かべ、要の口付けに応える。抱月は、これ以上幹彦が焼き餅を焼いたりしないように、と要の背後から手を伸ばして、腰から脇腹、胸許へと温い慰撫を施す。次第に深く濃密になっていく口付けが、先刻、快楽を享受し始めたときと同じ色で、要の貌を彩っていく。
 は、と熱の篭った吐息を零して貌を上げる。幹彦の頬をいとおしげに撫で、抱月を見遣り。
 そして要は、ゆうるりと甘く微笑んだ。





<了>

b a c k


t o p