ト  キ
かけがえの無い時間




 どれくらい経っただろう、すっかり日は落ちて、窓から見える夜空には星が瞬き細い三日月が淡い光を放つ頃、幹彦は座っていた机から漸く腰を上げた。
 眠る要の頭を柔らかく一撫ですると、珈琲を淹れるための道具が置いてある棚へ向かう。
出会って間も無くの頃だったか、要にと買い求めて来た珈琲椀に手を触れ、伏せる様な視線を送り乍ら縁を指先で緩く撫でる。口の端で小さく笑むと自分の椀と共に手前へ寄せ、豆の入った缶を手に取って、珈琲の用意を始めた。
 部屋の中に香ばしい珈琲の香りが広がっていく。背後となる椅子の方から漏れ聞こえてきた小さな声に、幹彦は背を向けた侭で口許を緩めた。カップを両手に持つと椅子の傍にある机迄運び、邪魔にならないところに腰を下ろす。目を細めて見守る幹彦の視線の先で、僅かな身動ぎと共にもう一度言葉成らぬ声を零す要が、ゆっくりと目を開いた。
 瞼を幾度か瞬かせ片手で目許を擦って、小さい欠伸を噛み殺す。何処か幼げに見える所作に幹彦の笑みが深まり、伸ばした手の平が要の頭を柔らかく撫でた。
「おはようございます、要君」
「…ぁ……はい…おはよう、ございま……ぇ、え?」
 掛けられた言葉に無意識に返しかけたところで現状を思い出したのだろう、慌てて飛び起きると要は貌を真っ赤にして頭を下げた。
「ごめんなさい、僕、その……眠ってしまっていた、みたいで…」
 その様子に幹彦は喉奥で小さく笑い、縮こまった肩を柔らかく叩いた。
「要君は悪くありませんよ。私の仕事が長引いたのが原因です。…こちらこそ、大分待たせてしまって済みませんでした」
「いえ、そんな…」
 逆に謝られてしまって更に狼狽える要を見遣り、笑んだ侭の貌で少し首を傾ける。
「もう大分遅くなってしまいましたし、講義は明日にしましょう。…今日のところは、珈琲でも飲みながら少しお話でもしましょうか」
 云い乍ら脇に置いてあった椀を取ると、要へと差し出す。済みません、と変わらず頭を下げてくる様子にはまた小さく笑い、構いませんよ、ともう一度その頭を撫でた。
 頭を撫でられる、という行為自体を多少恥ずかしいと思っているのだろう要は、はい、と小さく返しながらもまだ少し目許を紅くしていて、幹彦の笑みを誘う。
 そっと伸ばされた手へ椀を渡し、自分の椀を手に取って口許へ運ぶ。
「また遅くするかもしれませんが。………さて、今日は何の話をしましょうか」
 椀を持つ手を膝の上へ降ろしながら促す風な視線を要へ向ける。前半の台詞に怪訝な表情を浮かべるも続く問いの応えを探す様に視線を彷徨わせる要を見遣り、知らず幹彦の口許に笑みが浮かんだ。
「……それじゃ…独逸へ留学してらした時の話の続きを、……いい、ですか?」
「勿論ですよ、要君」
 ゆっくり頷くと記憶を手繰る様な面持ちで脚を組み替える。その姿を見詰めながら、幾分か期待に満ちた面持ちで要は漸く笑みを浮かべた。
「先回は1年目の夏頃迄の話をしましたから、今日は秋以降の話をしましょう」
 話をする姿へ確りと向けられる視線、一言一句聞き漏らすまいと傾けられる耳。珈琲を一口含む要の姿を確かめる様に見遣り、幹彦は静かに昔語りを始めた。





<終>

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