2010.09.14 UP

半 分
〜3〜


「花村、今の、一体………っ!」
 どうしたんだ、と言いかけて、高原は絶句した。
「―――って、て……い、ッてぇ…」
 見ると、タイル張りの床に花村が座り込んでいた。両膝を軽く開いた体育座りのような恰好で背中を丸めている。濡れた床に足を取られて尻餅をついたのか、痛みを堪えるよう両の拳を握り締めたまま、出しっ放しのシャワーに打たれていた。
 湯でうっすらと紅く上気した身体、濡れて額や頬に張り付いた髪。見ようによっては誘われているんじゃないのかと勘違いしてしまいそうな姿。
 そうじゃない、ってことは判っている。ただ災難に遭った直後だからという恰好でいるだけなのだ。そんな風に思われるのは嫌だろう。けれど、ついさっきまでそんなことをぐるぐると考えてしまっていたことが仇になった。
 知られたらきっと怒鳴られるだろうという不届きな妄想が、高原の頭の中を駆け巡る。視界の中、痛みに竦めていた身体からようやく力を抜いて花村が顔を上げた。
「っ、と、あれ、高原…? うわ、格好悪ィな、こんなとこ見られちまって…」
 みっともないところを見られてしまった、と花村は恥ずかしそうに頭を掻いた。そのままでいるのはさすがに居たたまれず、手をついて立ち上がろうとする。が、高原はそれを妨げるような恰好で片膝を詰めた。動きを止め不思議そうな表情を浮かべて、花村が高原を見上げる。
「………高原…?」
 訝しげな声が高原の名を呼んだ。上向く頬や目許が、身体と同じくシャワーの熱気で紅く染まっている。
 高原の喉がこくりと鳴った。花村の頤へ手が伸び、僅かに押し上げる。水流に顔を晒される恰好になった花村は目許を顰めて首を振り、顔を反らそうとした。その動きを制するように高原が床へ手をついた。身体を寄せて、衝動のまま花村に口付ける。
「っ…!」
 押し当てられた唇の感触に花村は思わず肩を竦めて目を瞑った。
 お構いなしに伸ばされた舌先が花村の唇を撫でる。啄むように触れたかと思うと強く吸い上げ、舌先は更に口腔の奥へと入り込んで行こうとする。
 その甘さと熱さ。花村はくらりとめまいに襲われた。高原の気配と手管に呑まれそうになる。けれど、肩を打つシャワーの感触と微かに聞こえてきた扉の開く音に、はたと我に返った。
 ここがどこか、さっきまで何をしていたのか、思い出す。
「―――ちょ、おま…やめ、ろ……って…!」
 どんどんと熱を帯びていく口付けからなんとか逃れようと首を捻りながら抗議の声を上げる。けれど全く聞こえていないようで、頤に触れていた手がするりと項へ回り込んだ。
 このまま流されたら色々とヤバいことになる。花村は今にも力が抜けていってしまいそうな手をきつく握り締めた。
 心の中で『すまん!』と頭を下げて握り拳を振り上げる。僅かな躊躇の後、高原の頭の天辺へ己が拳を勢い良く振り下ろした。
「―――ッ!」
 鉄拳は高原の脳天にクリーンヒットした。熱に浮かされたような口付けからようやく解放され、花村が大きく息をつく。
「…場所、もうちょっと考えろってお前…」
 呆れたような呟きに、痛む頭を抱えてうずくまっていた高原が顔を上げた。僅かに涙の滲む目でじとりと抗議めいた視線が向けられる。
「だからって殴るとか酷くないか」
「見境ないお前が悪いだろ」
 違うか、と花村は高原を睨んだ。ほんのり紅い目許で凄まれても怖くはない。けれど、と向けられる視線をまっすぐ受け止めながら、高原は次の行動について思案していた。
「おーい、大丈夫か? 派手な音したけど」
 不意に隣の個室から声を掛けられ、二人はぎくりと動きを止めて口を噤んだ。声に聞き覚えがある。確か、隣のクラスのヤツだ。
「―――や、なんでもない。ちょっ…と、足滑らせただけだから」
「そっか、結構床滑るから気を付けろよ〜」
 その台詞を最後に隣からの声は途切れた。一応確認できたから気が済んだのだろうか。隣の気配を窺うようにしばらく耳を澄ませてみたけれど、聞こえてくるのは水音だけだった。
 ほっとしてため息をつくと、同じタイミングで花村もため息をついた。思わず顔を見合わせ、ひっそりと吹き出して笑いあう。
「…、急ぐんだろ」
「うん、…ごめん。もう、止めるから」
 これで今は最後にする。そう決めて高原が顔を近付けると、花村はぎょっとした貌で身体を引いた。やっぱり、と内心苦笑しながら、遠くなった分だけ身体を前へと乗り出す。そのまま掠めるように口付けて、あっさりと身体を起こした。名残惜しいけれど仕方ない。
 呆気にとられた花村の表情が、仕方がないなとでもいうような形に緩む。
「―――莫迦野郎」
 とん、と花村に拳骨で頭を小突かれた。それを甘んじて受け止め、痛、と形ばかりだけれど口にして、笑う。
 先に立ち上がり、床に座り込んだままの花村へ手を差し伸べた。掴まる手を捕まえて強く引き上げ、立ち上がらせる。
「もう転ぶなよ」
「そう何回も転ばないって」
「どうだか」
「ひでー」
 隣に気取られないよう小さな声で言葉を交わす。危な気なく立つ花村の足許を確認して、踵を返した。
「じゃあ、また後で」
「ああ」
 シャワーカーテンを捲る前、ちらと肩越しに振り返る。花村は相変わらず苦笑めいた貌で、『行けよ』とまるで追い払おうとでもしているような手付きで手を振っていた。
 場所も場所だしここで長引けば長瀬と一条を待たせてしまう。というか様子を見に来られたりしたら結構面倒なことになりそうだからそれだけは回避しなきゃいけない、とどうにか収めた衝動。だからこそ、大分強く後ろ髪を引かれる思いでシャワーカーテンを繰り、高原は自分の個室へと戻ることにした。



 シャワーカーテンの向こう側に高原が姿を消し、微かに映る影も見えなくなって、花村はほっとため息をついた。
 最近練習続きで遊びに行ってないし、今日の試合は凄く気分良かったから、高原の気持ちは判らないでもないけど、と思ったところで、花村は慌てて首を横に振った。そんなコトに学校のシャワー室なんてトコロで応えなきゃいけない理由はない。―――絶対に、ない。
 とにかく頭と身体をさっさと洗って出よう。それで頭冷やせば少しはのぼせた熱も取れるだろう。花村は床に転がしたままにしていたボトルを拾い上げた。その背後でシャワーカーテンが引かれる音がした。再びぎょっとして振り返る。
 すると、カーテンの端から高原が顔だけを覗かせていた。一体なんだ、今度はどうしたんだ? と首を傾げ訊ねようとした矢先、高原が口を開いた。
「考えたんだけど、愛家行って飯喰ったら、遊びに来ないか? …来るよな? ―――よし、決まり」
 一方的に話を進めてにっこり笑う相棒の顔を見ていたら、自分の唇の端が引き攣るのが判った。何をか言い返したいのだけれど、言葉が見つからない。言葉にならない。
「邪魔して悪い、それじゃ」
 笑顔のままひらりと手を振って、高原は再びシャワーカーテンの向こうへと姿を消した。その影が微かに映っていたところへ向かって花村は手にしていたボトルを思わず投げ付けていた。それは高原に届くことはなく、カーテンを少し揺らした後、鈍い音を立てて床に転がった。
 シャワーカーテンの向こう側でその音を聞いた高原は、心底楽しそうな笑みを浮かべていた。





<了>

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