2009.03.19 UP ― 犬+主

消えた涙の行方
〜3〜


 買ってきたビールの缶はあっという間に無くなり、早々と焼酎へシフトチェンジした。我ながら今日は少しペースが速い。封を開けたばかりの一升瓶がもうそろそろなくなりそうになっていた。
「―――だってさ、先生っていつも気配消してくるから全然判らないんですよ。だから、その時も驚いたのなんのって」
「お前達が鈍感なだけだ」
「うわ、また非道いコト言う」
「本当のことだ」
 最初は途切れがちだった会話も、酒が入るにつれて少しずつ増えていった。在学中の思い出話から、最近の高校生は―――とかいう他愛ない話まで。取り留めもない会話が続く。
「…あれ、焼酎なくなってますね。新しいの持ってきます」
「ああ」
 空き瓶を片手に持って立ち上がる。お湯も大分無くなったから一度沸かしておこうと思い、ポットを片手に提げて台所へ向かった。玄関の上がり口辺りへ空き瓶を置き、ポットへ水を一杯に入れて電源コードを繋ぐ。
 ポットの水が沸くまでの繋ぎに鍋でもお湯を沸かしておこうと、置いてあった鍋へ水を張ってコンロにかける。
「どうした」
「ポットの水沸くの待つ間には少し沸くかなと思って」
 音を聞きつけた先生返事をしてから、まだ開けていない焼酎の瓶を持って居間へと戻った。
 ふたりでもう一升空けている。いつもならそんなに多いとも言えない量だけど、今日は少し酔いが早いような気がする。けれど先生は酔った様子も全くなく、いつもと変わらない様子で淡々と飲んでいた。先生にかかると焼酎なんて水と同じなのかもしれない。ザル、ってヤツだ。
 またひとつ、先生の事が判った。些細な事だけど、少しだけ先生に近付いたような感じがして、それが本当に楽しい。
「…そういえば、前から一度聞いてみたいと思ってたことあるんですけど」
「なんだ」
 少し知れば、もう少し知りたいと思う。もう少し知ると、もっと知りたいと思う。試しに、と訊ねてみたら却下されるどころか逆に訊かれてしまい、ちょっと驚いた。質問、してもいいんだ。前は『生物以外の質問は受け付けない』なんて言ってたのに。
 在学生と卒業生だと、先生の中で扱い方が違うんだろうか。それとも何か別の理由があるんだろうか。―――そもそも理由なんて、オレが自分を納得させるためにつけているだけで、本当は何も無いのかもしれない。気まぐれ、といってもいい類のもの、かもしれない。
 頭の中でぐるぐると考え込んでしまっていたオレは、質問の続きも言わずに呆けていたらしい。先生が訝しげな表情を浮かべていることに数秒経ってようやく気付き、『なんでもないです』と首を横に振った。
 半分以上ダメ元で言ってみただけの台詞がこうもあっさり受け付けられてしまうと、逆に緊張してしまう。空になっていた先生の碗へ焼酎を注ぎ、蓋をしながらひとつ息をついて、顔を上げた。
「えーと、…先生って、どうして生物を教えようと思ったんですか」
「たまたま、だ」
 それ以外の答えは無い、とでも言うようにあっさりと言葉を切って、先生は伏し目がちに碗を傾ける。普段のオレならここで言葉に詰まるしかなくなって、質問を打ち切られてしまう。でも今は酒が入っているからか、もう少し突っ込んでみよう、なんて無謀なことを考えていた。
「それ、答えになってないです」
 碗を置いた先生がじろりとオレを見た。意志をもって真っ直ぐに向けられる先生の視線は結構重い。重い、というか、きつい、というか。判っててやってるところが意地悪い。
「―――他にも、教科は色々あるのに…どうして生物だったのかな、って」
 教えてくれたっていいじゃないですか、と台詞を続けたオレから視線を外し、先生はテーブルの上の箱から煙草を一本取り出した。マッチを擦って火を点ける。息を吸う所作に応じて煙草の火が紅く光り、溜息に似た所作でゆっくりと煙が吐きだされる。
「国語は言葉を操る。…言葉を作ったのは」
「えーと、…」
 不意に掛けられる、謎かけのような台詞に戸惑う。誰が作ったのかなんて知らない。最初の文字を作った文明なら判るけれど、そういうことを聞かれているんだろうか。…そもそもその文明が作ったその文字が、本当に『最初の文字』かどうかなんて、今の人間に判る訳が無い―――。
「―――! …人間……です、か」
 不意に閃いた。先生は人狼で、人間じゃない。文字を使うのは、人間だけだ。
 無言のまま暫し煙草をふかしていた先生は、少しの間を置いて頷いた。顔の向きはそのまま、視線だけじとりと向けられて、無意識に背筋が伸びる。なんだか試験を受けさせられている。そんな感じがする。
「数学はその名の通り、数を学ぶ。…数字を作ったのは」
「人間…です、ね」
 今度は迷わなかった。先生はもう一度頷き、視線を外すと明後日の方向へ顔を向け深く煙を吐いた。
「社会は―――言わずもがな、だな」
「そう…です、ね」
 ヒトの歩みを学び、それを教えるなんて。確かにそれは、先生には似合わない。
「化学も物理も地学も気に入らん。比較的性に合うのが生物だけだった。…そういうこと、だ」
「なるほど…」
 確かにヒトの手が一番入ってないのはどれかといえば、生物になるんだろう。けれど。
「でもほら、教科は他にもあるじゃないですか。例えば―――保健とか、体育…とか」
「それが俺に合うとでも?」
「ぜっっったいに似合いませんね」
 真顔で即答し、更に首を横へ大きく振った。
「…言い過ぎだ。『性に合わない』と言え」
 溜息混じりに突っ込まれて、思わず吹き出した。
 身体を動かす、という意味では高過ぎる程に備えている能力も、教えるとなると勝手が違う。ヒトのやり方を覚えることも、そのやり方に沿って動かなくてはならないことも、何から何まで『性に合わない』のだ。先生は。
 煙草の灰を灰皿へ落とし、碗を口許へ運んで傾ける。その姿を眺めながら、思う。どうして生物を教えているのか、卒業してからだけど聞くことができてよかった。嬉しくすらある。…在学中は、聞いても殆どまともに相手をしてくれなかったし、自分からは絶対に話してくれなかったから、余計にそう思うのかもしれない。
 と、先生が台所の方を見ていることに気付いた。なんだろう、と首を傾げながら台所を見遣る。
「―――っ、あ!」
「…鍋、火に掛けたままだ、な」
 気付いたオレが思わず上げた声と、先生がそう言う声が重なる。話に集中していて、鍋を火にかけていた事を忘れてしまっていた。慌てて立ち上がり台所へ鍋を見にいくと、鍋の中で水が煮えたぎっていた。直ぐに火を消し、ほうっと息をつく。
 途端にくらりと目眩がした。咄嗟に流しの縁へ手をかけて、揺らぐ身体を支える。少し、酔いが回ったのかもしれない。ふう、と息をついて、流しの蛇口から水を手に受けて飲む。
 そういえば、と思い出してポットを見る。まだ沸くまでには少し時間がかかりそうだった。目一杯水を入れたから仕方無い。取り敢えず鍋で沸かしたお湯だけでも持っていこう。鍋に少し水を足して湯温を下げてから、テーブルへと戻る。
「鍋、大丈夫でした。…ポットの方ももう少しで沸きそうです」
 言いながら座り、お湯割りを作ろうと傍らを見る。すると、置いといた筈の焼酎が無くなっていた。あれ、と思い見廻すと、焼酎の蓋を開けようとしている先生の姿が目に入った。
「あの、オレ、作りますよ?」
「いいから座っておけ」
 手を伸ばしたけれど、どうも渡しては貰えなさそうだ。仕方無いので浮かしかけた腰を下ろし、お湯割りを作る先生の横顔を眺めた。日本人らしい、といっていいのかもしれない、少し骨太な感じのする輪郭。年中無精ひげの絶えない顎。ひげが濃いわけじゃないけれど、放置しているにしては短い。そんな微妙な無精ひげは、十年前も、そして今も、先生のトレードマークだ。
「飲め」
「…ありがとう、ございます」
 差し出された湯飲みを受け取り、ぺこりと頭を下げた。慣れないことをするときは当然、されるときも同じくらいに緊張するものなんだと知る。そして、滅多にないコトであるが故に、背中がくすぐったいような、不思議な心地良さがあることを、知る。
 両手でしっかりと持った湯飲みを口許へ運びながら思う。『遊びに行きたい』というオレの言葉がどうにも不可解らしい先生の様子にも諦めず、押し切ってみて良かった、と。
 在学中からずっと、―――というより『術は向いていない』と言われたあの日からずっと、いつか必ず先生を見返してやる、とは思っていた。けれど、一緒に酒を酌み交わすような日が来るなんて、思いもしなかった。そしてそれが、こんなに楽しいなんて。
 焼酎を二口三口と飲み、息をつく。なんだか良い気分だった。いい感じに酔っぱらっている、のかもしれない。
「そしたら―――もうひとつ、…『先生になった』のは、どうしてなんですか?」
 じ、と先生を見てそう言うと、じろりと睨め付けられた。眼光の鋭さに『いえ、何でもないです』と口走りそうになる。でも、ここで引きたくない。視線を合わせたまま焼酎をもう一口ぐいっと飲み、改めて先生を真っ直ぐに見返す。
「…それくらい、聞いちゃいけませんか」
 ね、と首を傾け、先生をじっと見る。
「………」
 その構図のまま数秒。酔いに任せて押してみたけどやっぱりダメだったかな、と諦めかけたその時。先に根負けしたのは意外にも、先生の方だった。
「…聞いてどうする」
 先生はふいと視線を外して溜息混じりにそう言った。
 きっと今、オレにもし耳があったなら、ぴし、と綺麗に立っているに違いない。切り立った崖を登らなければならないのに道具も何も無くて、『どうやって登ったらいいんだろう』と途方に暮れていた矢先、指先をかけるのにお誂え向きの場所を不意に見付けたような。闇夜の灯火。
「どうもしません。…先生の話、聞きたいだけです。卒業してからはオレずっと日本離れてたから、そんな機会全然なかったし、…先生の話聞くの、楽しいから」
 碗を口許へ運ぼうとしていた先生の手が、一瞬止まった。なんとなく、表情が変わった気がする。
 じ、と見ていると、先生は余所を向いたまま何事もなかったように碗を傾けた。
 もう少し、だろうか。オレはテーブルへ腕をつき身体を乗り出して、先生の横顔を覗き込んだ。
「―――オレ、何聞いても、誰にも話しませんから」
「…誰かに話されて困るような事じゃない」
「だったら教えてくださいよー。ホントに、…先生のことだから、知りたいんです」
 頭で考えるより先に言葉が口からすらすらと出ていく辺り、やっぱりちょっと酔っているのかもしれない。内心、自分で自分に苦笑する。そんなオレの目の前で、先生が『どうしようもないな』という風な溜息を零しながら頭をがりがりと掻いた。
 そうして先生は、机に肘をつき手に持った碗の中の酒を眺めるような格好で、口を開いた。
「人に、勧められた。―――他に何もやりたいと思うことが無かったから選んだ。…それだけだ」
「―――誰に、勧められたんですか?」
 ぐ、と碗の中の酒を呷り、ごくりと飲み干した先生が真っ直ぐにオレを見た。
「お前の知らん奴だ。…どうして俺に教師を勧めたのかは知らん」
 先に答えを言われてしまい、うーん、と唸る。
「でも…そっか、その人のお陰で、オレ、先生に逢えたんですね」
「…さあな」
 そっけない先生の言葉も気にならなかった。そっかぁ、ともう一度心の中で呟きながら、湯飲みの中の焼酎を飲み干す。誰だか判らない、先生も教えてくれる積もりはないらしい、先生が先生になることを勧めてくれたその人に、なんだか感謝したい気分になった。
「先生って案外面倒見がいいから、…だからなのかなぁ」
 呟くと、手の平に包んだままだった湯飲みをひょいと取り上げられた。見ると、また先生が焼酎を入れてくれていて、ちょっと嬉しくなる。
「馬鹿の面倒を見るのは疲れる」
「馬鹿ほどかわいい、っていうじゃないですかー」
 焼酎に湯を足した湯飲みを持ったまま、先生がまじまじとオレを見ていることに気付く。『なんですか?』と首を傾けると、ごつんとげんこつを喰らった。
「…てっ! 〜〜〜先生、何するんですかッ」
 大げさな位にオーバーアクションで頭を擦って顔を上げると、先生は見たことのない、少し見惚れるような苦笑を浮かべて、オレの方を真っ直ぐに見ていた。
「馬鹿はどこまでいっても馬鹿なだけだ。最後の最後まで面倒かけてくる」
 飲め、と湯飲みを渡された。そのついでのように頭をくしゃりと撫でられて、不意打ちに顔が緩んでしまう。
「馬鹿ですいませんねー」
「まったくだ」
 べ、と舌を出してみせ、先刻受け取った湯飲みを傾けて酒を飲み、ほう、と溜息をつく。
 また、くらりと目眩がした。本当に今日は大分酔っぱらってしまったみたいだ。
「馬鹿は取り敢えず飲んでいろ」
「そんなに馬鹿馬鹿言わなくたって―――」
 ぐらり、と視界が大きく揺れた。咄嗟にテーブルへ手を伸ばし身体を支えようとしたけれど、力が入らなかった。代わりに、先生が伸ばした腕で支えてくれる。
「…大分飲んだか」
「や、…そんなでも、ないと思うんですけど…」
 身体がきかなくなる程には飲んでいない積もりだったけれど、―――そんなに酔ってた、かな。先生の台詞に応えながらも、次第に酷くなっていく目眩と強くなっていく眠気に、頭を振る。
「無理するな。酔ったなら寝ておけ」
「でも、まだ先生と話が―――」
「…寝ておけ」
 低く、どこか囁くような先生の声をすぐ側に聞いた。その声を最後に、オレは意識を手放した。





          ◇     ◇





 ふと気付くと、オレは雑踏の中に居た。瞬間、状況が掴めなくて辺りを見回した。
 辺りの風景や見覚えのある看板からすると、ここは新宿らしい。…けれど、どうしてオレはこんなところに居るんだろう。京一達と中国に居た筈なのに、どうして新宿なんかに。
 後ろから歩いてきたサラリーマンに気付かず肩をぶつけられ、少しよろけてしまう。道の真ん中で呆と突っ立っているのはさすがに邪魔か。取り敢えず道の端へ避けておいた方がよさそうだ。
 人波をすり抜けて道の端にある自動販売機へ向かい、ペットボトルを買って蓋を開ける。喉を通り抜けていく冷たさに、ぼんやりとしていた思考が少しはっきりしてきた。
 ―――そうだ。久しぶりに逢おうと思って、中国から一人で飛行機に乗って、帰ってきたんだ。
「でも、…誰に?」
 そこがどうもはっきりしない。
 もう一口ペットボトルの水を飲んで、自動販売機に寄りかかりながら目を閉じる。
 真神学園を卒業してから10年経った。修行も一段落ついたし、定職じゃないけれどそれなりに稼ぐこともできるようになった。みんなが今どうしているのかも気になってたし、久しぶりに会いに行こう、と思って、日本に来た。―――ような気がする。そう、確か、京一は仕事を請け負っている最中で手が離せないから、でも時期をずらすと今が盛りの筈の桜が見れないし、だから、オレ一人で来ることにしたんだ。
 それで、初日の昨日はまず真神学園に寄って、久しぶりの校内を眺めてきた。後は、前に小蒔から貰ったみんなの携帯番号へかけてみて、連絡が付いたら会いに行こう。…という、行き当たりばったりな計画―――これを計画と言えるなら―――だった。気がする。
 そこでふと、何か、足許がすっぽりと抜け落ちているような、心許ない感覚に襲われた。大事な何かを忘れているような。いたたまれないような、感覚。
 でもそれは、久しぶりの日本だから、少し違和感を覚えているだけかもしれない。中国に居るときは大きな都市へ行くことがなかったから、久しぶりの雑踏に軽く酔った…のかも、しれない。
 あんまり深く考えても、良くない気がした。
「よし、丁度土曜日だし、連絡とってみよう」
 きっと誰か出てくれるだろう。と、なんとも行き当たりばったりなことを考えながら携帯を取り出し、メモリーを確かめる。
 心のどこかに引っかかっている、どこかぼんやりとした違和感をそのままにして、オレは、携帯の通話ボタンを押した。



<つづく>

モドル ススム

カエル