きっと傍に居て
壬生×主






 黒の学生服姿の僕が、自分を狙ってやってきた刺客だということにようやく気付いた背広姿の男は、情けない声を上げながら、一目散に逃げていく。
 余りに慌てている所為か、それとも日頃からの運動不足の所為か。その逃げ足の余りの遅さにひとつ溜息をつくと、地面を蹴って後を追う。あっという間に袋小路へと追い詰め、高い塀を背に震える男目掛けて拳を繰り出した。
 いつもなら、血など飛び散らせることなく綺麗に片を付けるのだけれど、今回は目算が狂ってしまった。『窮鼠猫を噛む』―――――実際噛まれはしなかったけれど、男が最後の反撃とばかりに躍り掛かってきた。
 ち、と舌打ちをしながら、近距離用の刺突技へと手を変化させる。片腕で男の殴りかかろうとする手を払い、手刀を腹部へ深々と突き刺す。厭な音と共に、手の平に濡れた感触。凭れ掛かるように屑折れる男の身体を押しやり、紅く濡れた手を引き抜く。どさりと重い音をたてて目の前に転がった男の顔が月の光に照らし出された。手に付いた雫を振り払いながら何気なく男の顔へと視線を泳がせた僕は、次の瞬間、凍りついた。
「―――た、つ…?」
 長い前髪、薄く結ばれた唇。そして―――――見覚えのある学生服。胸元のワッペンは、確かに、真神学園のもの―――――
「龍麻ッ?!ど、うして――――ッ」
 確かに、僕は依頼にあった男を追っていたはずだった。けれど、今目の前にこときれて倒れているのは、見間違いようもない―――――――





「龍麻ッ!!」
 がばっと跳ね起きる。呼吸が荒い。こめかみから頬を伝い落ちた汗が、頤から滴り落ちていく。息を整えながら、はっとして自分の手の平を見詰めた。其処には―――――血の一滴も、ついては居なかった。ふと気付くと、自分の居るところは自室のベッドの上で、隣には、安らかな寝息を落とす、龍麻の姿があった。
 寝息は確かに耳に届いているけれど、実感が欲しくて震える手を伸ばす。触れる瞬間、己の手に血が付いていないかもう一度確かめてしまう。そうしてようやく安心してから、彼の黒髪に触れ、頬へ指を滑らせてみる。
「ぅ……ん…」
 頬に触れる感触が擽ったいのか、少しむずかるように顔を横に振る龍麻。彼の吐息を指先に感じてようやく、安心する。
 ほうっと深くため息をついてから、汗で額に張り付いた前髪を掻き揚げ、両手で頭を抱えた。
 動悸は、未だ治まる気配を見せず。耳鳴りがするほどの鼓動。



 夢で良かった、と、心から思う。
 どうしてあんな夢を見たのか。どうして―――――と自問自答するけれど、答えが返ってくる筈もなく。
 なんだか、頭が割れるように痛む。
「……く…れ、は…?」
 目を擦りながら、隣で寝入っていた筈の龍麻が寝返りを打って目を擦った。
「起こして……しまったね。ごめん」
「ん…どうか、した…?」
 身体を起こそうとするのをやんわりと止めて、逆に紅葉のほうが屈み込み半分夢の中に居る彼の頬に唇を寄せた。
「まだ早いから、もう一眠りしよう」
「………」
 様子がおかしいことに気付いたのか、先刻まで眠たそうだった目がしっかりと紅葉を見上げてくる。平静を装ってはみるものの、龍麻には通用しないらしい。
「紅葉、なんで泣いてるの」
「そんな、泣いてなんか―――」
 龍麻の手が大きく伸ばされて、紅葉の身体が引き寄せられた。少し戸惑いながらもゆっくりと身体を倒し、あまり負担をかけないように覆い被さる。ぎゅうっと抱き締められながら、今度は額へ口付ける。
「厭な夢でも見た?」
「……なんでもないよ」
 言える訳がない。『紅葉が選んだ道だから』と何も言わないでくれているけれど、本当は、拳武の仕事は決して歓迎はされていない。その仕事の夢、しかも、追っていた相手が―――――
「…また、泣きそうな顔……してる」
「………たつ、ま」
 龍麻の額に当てていた頬を外し、枕の上に乗せていた拳の上に頭を移動する。と、背中に回されていた龍麻の手が、紅葉の背中をとんとんと宥めるように軽く叩いた。
「震えてる。…寒い?」
 言葉が出せず、首を振って応える。それならいいんだけど、と、彼の両手が背中を離れていく。
「紅葉」
 身体を少し押し戻されて、上体を浮かせる。間を置かず頬へと伸ばされた龍麻の手。引き寄せられるままに顔を寄せると、くっと頤を逸らせた彼の顔が近付く。
 柔らかい感触。龍麻の唇が紅葉のそれへと押し当てられ、温もりが流れ込んでくる。
「震えてたの、止まった」
 唇を外した龍麻がにっこりと笑った。
「……いつもはしてくれないのに」
「だって恥ずかしいだろ」
 月明かりしかない部屋の中では彼の些細な表情の変化はよく判らない。それでも彼を取り巻く雰囲気から、きっと照れて仄かに紅くなっている筈。くすりと微笑んでから、今度は紅葉から口付ける。
「それじゃ、僕も少し自粛しようかな」
「…駄目」
 我侭だね、と苦笑しながら、今度は頬に口付ける。
「だって紅葉にして貰うの、凄く気持ち好いから」
 言葉を失くした紅葉の胸に手を当てていた龍麻が、あ、と声を上げる。
「紅葉の心臓ばくばく言ってる」
「……君の所為、だよ」
 へへ、と何処か嬉しそうな彼の表情に笑みを浮かべながら、紅葉はベッドへ身体を倒し龍麻を抱き寄せた。顔を寄せた彼の黒髪から、今更のように陽だまりの匂いがして、泣きたいくらいに暖かい気分になる。




  ススム





カエル