均衡の綻び





「よォーっし、もう一勝負ッ!」
 雑踏の中、何処からか聞こえてきたその声を耳にして、村雨はふと脚を止めた。
 夜の歌舞伎町。瞬くネオンを縫うように歩いていく着飾った女達、どこか疲れたような色を表情に纏わせながらも一杯やっていく店を物色して歩く男達。さざめく笑い声と密やかな話し声。そんな雑踏の中にあって、周囲のざわめきに埋もれることなく村雨の鼓膜を震わせた声に、片眉があがる。
 ぐるりと辺りを見回すと、一応の見当をつけたのか、ふらりとある路地へと折れて入っていく。
「うぇ、そうくるかァ〜……っよしッ」
 ちり、ちりり。陶器を弾く軽い音色が微かに耳に届いた。先刻よりも更にはっきりと聞こえた声に確信を深めて、路地の隅に出来ていた小さい人の輪をひょいっと覗きこんだ。
「よっしゃ、いただきッ!」
 落胆と感嘆の声の上を、先の声が飛んでいく。路上に置かれた小さな茶碗の中、賽の目は確かに好い手だった。得意げな貌を隠そうともせずに笑う姿を人垣の隙間から垣間見て、村雨はにやっと笑う。組んでいた腕を解くと左手を輪の中へ突っ込み、狙い違わず赤茶の髪を捕らえた掌は、そのままぐしゃぐしゃとそれを掻き混ぜた。
「よォ、ダンナ。今日はなんだかついてるみたいじゃねェか」
「っう、わ……っって、村雨かッ」
 割って入った村雨の姿に、賑っていた輪が崩れる。歌舞伎町界隈では強運で名の通っている村雨の出現に皆驚いたらしく、『今日はついてねェ』だの『もう仕舞いだ』などとぼやきながら、薄くなった財布を懐に散っていった。



 片眉を上げて肩を竦めると、路上に座り込んで手にした札を数える男に向き直る。
「性懲りもなくまたヤってたのか?」
「うるせェ。てめぇが相手じゃなきゃ、俺だって勝てるンだよっ」
 蓬莱寺京一。初対面の村雨と、これまた初体験の花札を試み、見るも無残な大敗を喫して身包み剥がされたのはいつだったか。その後、流石に懲りたのか村雨相手に花札勝負を挑むような真似はしなくなったが、こうやってたまに其処ら辺の雑魚を相手に賭け事に興じているようだった。唯一村雨を負かした緋勇が選んだ男達の一人なのだから、雑魚相手ならば勝つのも道理。確かにそれが賢明だなァ、とひとり心のなかで村雨は笑った。
「へへっ。想ったより勝ったな」
「は……他人のシマでンなこと言うたァ、よっぽど命が要らねェらしい」
「言ってろよッ」
 上機嫌でにやっと笑うと札をポケットへ捩じ込み、すっくと立ち上がってジーンズを叩く。肩に乗ってしまっていたパーカーのフードを後ろへ流すと、傍らに置いていた木刀の袋を手にして村雨に向き直る。
「今日はすげぇ勝って気分が好いンだ。どこか好い店教えろよ。奢るぜ」
「御前の口からそんな台詞が聞けるなんざ、想っても見なかったぜ」
「ォら、教えるのか教えねェのか?」
 木刀の袋を肩に当て、とんとんと幾度か跳ね上げる。村雨は呆れたように笑うと、手に持っていた袋を掲げて見せた。
「酒なら上等なヤツがここに腐るほどある。……どうだ、俺ン家に来て飲まねェか」
「え、…いいのかッ?」
 ころころと変わる表情が、見ていて飽きない。嬉しげな声を了承と取り、がさりと袋を肩に背負うと村雨は返事も待たず先に立って歩き出した。
「その代わり食いモンは御前持ちだな―――」
「あァ?非道ェなぁ」
「御前……『奢る』って言ったのはどっちだよ」
 先へ歩き出した村雨を追いかけてきた蓬莱寺が、仕方ねェなあ、と笑う。連れ立って歩き出し暫くすると、いつもとは違う感覚を覚えて村雨が首を捻る。
「あァ…そうか……」
 ひとり得心のいった貌で口元を緩め頷く。ふとそれに気付き、蓬莱寺が首を傾げる。
「なんか言ったか?」
「なんでもねェよ」
 相変わらず変なヤツ。そう呟いた蓬莱寺の頭を小突いて、莫迦野郎、と村雨が笑った。



◇   ◇   ◇





 伸ばした指先で、瓶の口を突付く。ゆらりと揺れてごとんと横倒しになる酒瓶。飲み干され横に倒された酒瓶が幾つも転がる部屋を見回しながら、村雨が溜息をついた。
「サシで飲むのは初めてだけどよ……結構いける口なンだなァ」
 ほとんど素面のまま、手にした御猪口を口元へと運びぐいっと飲み干す。と、すかさず蓬莱寺の腕が伸びてきて次の杯を満たしていく。
「まァな―――」
 少しだけ紅くなった頬を親指で擦り、少し得意そうな貌をして、手酌で杯を重ねる。
 村雨の今日の戦利品だった筈の何本もの酒瓶が、あと残り僅かになってしまうほどに飲んだというのに、ふたりとも酔っているのかいないのか判らない。存在をほとんど忘れ去られたテレビが、最近流行りの曲を流し始める。ちかちかと明滅する画面をなんとなく見ながら、蓬莱寺が深く溜息をつく。
「やっぱふたりだけだと静かだなァ」
 言いながらごろりと身体を傾け、村雨の片腕に全体重で寄り掛かる。重いから退け、と少し凄んで見せる村雨に、へへっ、と笑みを返しながら、そうだ、と妙案でも想いついたように声を張り上げた。
「大将とかひーちゃんも呼ぼうぜっ」
「……今、一体何時だと想ってンだよ」
 草木も眠るなんとやら。そんな刻限をとっくに過ぎた今では、電話などとんでもない。けたけたと笑いながら、そうだよな〜、こんな時間に呼び出すなんざ、糞真面目な大将辺りに締め上げられらァ、と調子の好いことを言う蓬莱寺の頭をこつんと小突く。
「痛っ…てェな〜」
 言葉とは裏腹、微塵も痛いとは思えない表情でまたけらけらと笑う。
「御前、ちょっと黙っとけ」
「っ?……っ」
 寄り掛かられた腕が熱い。蓬莱寺の頭を受け止めたまま体勢を整え、もう片方の手で直ぐ近くの頤を持ち上げる。酒の所為だろうか、少しだけ仄紅く染まった目許に、不覚にもくらりと眩暈。そのまま貌を寄せ、熱を確かめる。微かに感じる吐息に目を細めながら、ゆっくりと唇を合わせ―――――――
「……一寸待て。御前、さては最近流行のアレか?」
 合わせる寸前で貌をぐいっと押しやられ、動きを止められてしまう。こういう場面で不覚を取るほど初心ではない筈の村雨。苦笑を口の端に浮かべ、己が胸を押し返している腕を逆に掴み返した。
「アレってな、なンだ?」
「…………アレ、て言ったら、アレ…だろ」
 名称が思い出せないのか判ってて表現を濁しているのか。口調に歯切れが無くなった蓬莱寺の腕を更に引き、自分の膝の上に引き倒す。酔っている所為なのか不利な体勢に持ち込まれたことを認識していないらしく、村雨の膝の上に頭を乗せたままただただ見上げてくる瞳の色は、いつものそれと全く同じだった。酔って上気している所為で確かに色は増しているものの、背中を預けあって腕を揮った闘いの最中、振り返ればいつも其処にあった瞳と同じ色。



 ふと、膝の上で蓬莱寺を押さえ込んでいた村雨の腕の力が弱くなる。何がしたいのか判らないといった風情で、訝しげな表情を浮かべた蓬莱寺が膝の上から身体を起こそうとする。息を潜めるようにして、村雨はその動きをじっと見ていた。
「……なんなんだよ、御前」
 非難する訳でも問い詰める訳でもない、聞き慣れたいつもの声。受け入れている訳でもなく、拒絶している訳でもない、強い光を放つ瞳。
 現れた光を目にし、密やかに息を吐くと僅かに目を細める。
「なんでもねェ」
 呟くように告げながら、村雨は直ぐ脇に置かれていた御猪口を手に取りぐいっと酒を呷った。口に含んだまま蓬莱寺の頤を引き寄せて唇を合わせ、無防備に開かれた唇の隙間から半分を流し込む。それを跳ね除けもせず受け入れ、蓬莱寺は口移しで注がれた酒をこくりと飲み干した。
 は、と息をつき、酒の為に薄く朱を引いたような面を上げ、じっと村雨を見詰める。
「今のは……なんのつもりだよ?」
「…別に、なンにも?」
 急におどけるような笑みを造って肩を竦めて見せる村雨に、眉を顰めた蓬莱寺が胸板を押し返そうと左の拳を突き出す。それを手の平で受け止めた村雨は、はぐらかすように片眉を上げた。
「さて……酒にでも酔ったかなァ…?」
「どの面下げてンな冗談言ってんだ、御前ッ」
 つられるように蓬莱寺の相好が崩れる。酒の席での悪ふざけ。今はまだ、そう取られても、いいのかもしれない。言葉に続いて繰り出された右の拳を易々と受け止めて、危ねぇな、と村雨が喉奥で微笑った。



「さて…と。まだ飲むか?寝るンなら、毛布くらいは貸してやるぜ?」
 ふたりが座る所から反対側の壁際に据え付けられたソファベッドを顎で示し、ゆらりと立ち上がる。それを見上げながら蓬莱寺がこくりと頷きを返した。
「そうだな………あぁ、そういや明日補講があるんだった…」
 朝っぱらから鬱陶しいぜ、と呟きつつ見上げた先で時を刻む時計は、23時30分を指していた。やべェ、と僅かに顔色を変えて呟く蓬莱寺に手を伸ばしグラスを奪うと、村雨は残っていた酒を一息に呷り、俺の酒に何すんだッ?!という大声を背中に受けながら寝室へ向かう。毛布を持って居間へ戻ってくると、慣れた風にソファの背凭れを倒しベッドを作っている蓬莱寺に苦笑した。
 酒盛りだ麻雀だと龍麻達を巻き込み泊まって行く彼にとっては、言わば『勝手知ったる場所』となっている村雨の部屋。近付く村雨の気配に気付き無意識に手を伸ばして毛布を受け取ろうとする仕草を眺め、思わず口元が緩む。伸ばされた手を避けるように身体を動かし毛布が取れない位置へと移動すると、毛布を掴もうとしていた蓬莱寺の手が空を切った。その様子に、更に笑みが深くなる。
「……なに気味悪ィ薄笑い浮かべてンだ?毛布寄越せって」
 あからさまにむっとして睨んでくるその貌に、ばふんと毛布を広げて投げる。当然頭から毛布を被る格好になってしまい、てめぇ、なにすんだっ?! ともがく蓬莱寺に、今度こそ声を上げて村雨は笑った。
「悪ィ、手が滑っちまった」
 くっくっと喉の奥で意地悪く笑う同級とは思えない容貌を睨むように見上げ、無言で手近のクッションを投げ付ける。危なげなくそれを受け止められ、小さく舌打ちが零れた。
「枕、要らねェのか?」
「莫迦野郎、返せッ!」
 腕の中へ大人しくぽすんと返されたクッションを抱え、蓬莱寺が深く溜息をつく。
「ヒトの事からかってんじゃねぇッ!……てめーもとっとと寝やがれっ」
 相手にするには分が悪いと思っているのか学習したのか。好いようにあしらわれてしまう自分に歯噛みしながら、いつかきっと吠え面かかせてやる、とでもいうように拳を握り締め、それだけ言うとばさりと毛布を被ってさっさと寝る態勢に入ってしまう。
 人の居間を借りて寝ている身だという自覚が微塵も見えない態度にひとつ息をつきながら、ひらりと手を振り部屋を出て行く。
「あぁ、俺ァ起こさねェからな、自分で起きろよ?」
 言い残していく村雨の背中に、判ってらァ、とぶっきらぼうに投げられる声。肩を揺らして笑いながら寝室へ入り、ベッドの上に村雨は自分の身体を投げ出した。



 上着くらい脱がなければと思いつつ、ついうとうとしてしまったらしい村雨が、ベッドの上ふと目を開いた。なんとなく頭を掻きながら、ふと腕時計を見遣る。淡い光にぼんやりと浮かび上がった現在時刻は23時55分。ぱたりとベッドの上に持ち上げていた腕を落として暫し天井を見ていた村雨は、やおらむくりと起き上がった。
 寝室のドアを抜け、脚を向けた先は―――――居間のソファベッドで眠る、蓬莱寺の枕元。
 カーテンの隙間から差し込む月明かり。闇の中浮かび上がる寝顔は年相応。
 いつもの自信に満ちた表情も好いけれど、偶にはこういう顔も好い。そんなことをぼそりと呟きながら、傍らに胡坐をかいて座り込む。丁度目の前に、眠る彼の顔。
「判ってンのか、判ってねェのか―――――」
 小さい溜息と共に呟く横顔に、僅かばかり垣間見える、ほんの少しの逡巡。
 つと伸ばした指先が頬に近付き、ほんの僅かの距離を置いて止まる。身動ぎもせず貌を見詰めたまま固まっていた影が、突然鳴った時計の音にびくりと動揺した。
「……12時、か…」
 呟くと拳をぎゅっと握り締め、それを己が膝の上に収める。そうして視線だけでただ眠る横顔を見詰め、苦笑めいた吐息を零しながら目を細めた。



 もう一度腕時計を覗き込み、日付を確認する。苦笑めいた色を浮かべた貌が、ゆるりと微笑みを形作った。膝の上に肘を乗せ頬杖をつき、眠る横顔をじっと見詰める。
「……誕生日だな………おめでとさん」
 暫くは同い年だな、と小さく呟き、額をこつんと小突く。微かにむずかる仕草を微笑いながら見遣り、息を吐きながら立ち上がる。
「いつまで……持つか」
 判らねェな、とひとりごち、親指の腹でゆるりと頬を撫でる。その感触に零れる微かな声に、一見穏やかそうな微笑みが落ちた。
 眠る蓬莱寺を眼下に見遣り、村雨は静かにその場を後にする。



 寝室の入り口、ソファを振り返る貌には、影が落ち。過ぎった表情は誰に見咎められることもなく、ドアの向こうへ消えていった。







<FIN>






カエル